流れを信じる統合失調症患者

麻雀では流れを信じる知能に問題がある人物が少なくない。

流れを信じるにしても、それを自らどうにかすることはできないと考えている人間は信仰の自由なので何も言うことはないが、問題は流れは変えられると信じているものだ。

もちろん、プレーヤーの行動が変われば展開は変わるわけだから、流れが変わるというのは間違いないのだが、それを自分にとって有利に左右させるのは不可能である。

よくあるのがツモの流れというもので、ついていないから鳴いてツモ山を変える、あるいはついている人間のツモ山を変えるという方法があるが、見えない牌のツモ順をずらしたところで全く意味はない。

鳴きが入ったことで物理的にツモる牌が変わるわけだから、展開は変わるがそれが良い方に転ぶのか悪い方に転ぶのかは開けてみなければわからないわけだから、これは意味のない行為でしかない。

冷静に考えなくてもわかることなのだが、麻雀を打っている人間は本気でこのような意味のない行為で流れを変えることができると思っているし、意味のある行為だと考えている。

それもプロ(笑と呼ばれる人間が、真顔で語っていたりするのだから笑いを通り越して呆れてしまうものだ。

この手の人間の質が悪いのは結果論で都合の良いようにしか考えないので、ツモを変えて悪い結果になれば相手のツキが良すぎて為す術がなかったと言い、上手く行けば流れを変えるのに成功したという。

鳴いたことによって結果が変わったのは事実でも、鳴かなくても同じだったかも知れないわけだから、鳴いて正解だったということはない。

大事なことは、それが本当に鳴く必要のある牌だったかどうかということだけで、流れを変えると言ったくだらない理由で鳴くということは麻雀のゲーム上ありえない話である。

ギリギリ意味があるとすれば、自分が流れの存在を信じていなくても相手が流れを信じているタイプで、自分の手がどうすることも出来ず意味のない鳴きをして流れを変えた風に見せて相手に嫌な印象を与えるといったぐらいだろうか。

所詮は悪あがきにしかあらず有効となる局面が限り無く限定をされていることから、鳴いて流れを変えるというのはほぼ無意味な行為となるわけだ。

また、そもそもこの行為は方法論としても矛盾をしていて、考え方の根底にはツキの概念がある。

相手がついているということは、自分がついていないということで、それならばついていない人間の悪手は余計についている人間をつかせる結果になるのではないだろうか。

普通に考えればついていない人間が余計なことをすれば、更に深みにハマってしまうわけだから、できることと言えばじっと耐え忍び相手のミスを待つか、自分にツキが訪れるのを待つことしか無いはずだ。

それを人為的にどうにかしようと、普段しないことをしてツキを呼び込もうとするのは虫が良すぎるし、月の概念に反する矛盾した行為になる。

このように鳴いて流れを変えるというのは、ひとりよがりの自分勝手な行動でしかなく、そのようなことに意味があると思っているのは、知能にかなり問題があると言わざるを得ない。

それでも世の中には人間の想像もつかない能力を持った人がいるかも知れないから、流れを実証するために予め牌山を記録した上で、対局をしてもらいたいもんだね。

その上で100パーセントとは言わなくても、統計的に有意義なほどに流れを変えることができる人間がいれば流れの存在を少しは信じようと思うことになるわけだが、こんな手間のかかること誰もしないし、意味のないことだってバレちゃうから流れ信仰患者は乗ってこないだろうね。